mille


五月晴れとは梅雨の合間の青空の様子を表す言葉であるからそう呼ぶのは適切ではないのだけれどもそれはよく晴れた五月のある日のことで、その日は師匠と三島へ出張に出かけた。以前初めて訪れた際の三島の空は雨上がりでどんよりとした灰色の雲に覆われていて、まだ桜も咲かない寒い時期のことであったように記憶している。だからこの日は、まるで別の街へ来たかのようであった。しかし天気がよいのはよいことである。そしてよいことは重なるものだ。次によいことは到着の時刻が早かったので昼飯を喰うつもりであった店まで歩いていくだけの時間があったことだ。そこで伊豆箱根鉄道三島広小路駅までを歩くことにした。歩いていく途中に綺麗な小川があり、その川べりにとても綺麗な水芭蕉が咲いているのを見つけた。水芭蕉はとても好きな植物なのだけれどそれを見るのはとても久しぶりのことだったので、ふんわりと幸せな気持ちになった。ところがそれは実は水芭蕉ではなく水芭蕉のやうな綺麗な植物であったそうである。しかしそれに気付くまでの間は綺麗な水芭蕉を見られてとても幸せだという気持ちに浸ることが出来たのでいずれにせよその日はよい日だったのだ。そしてよいことはまだ重なるのである。とてもよい日だ。


さて、昼飯は鰻である。三島に来れば鰻を喰うということは神様がこの世界を作る前からのしきたりなのであるそうだ。三島にはそこかしこに鰻屋があるのだが、師匠が言うにはこれからゆく鰻屋がとにかく素晴らしいのだということで否が応にも期待が高まった。桜屋という名前の駅前のその店は大変な有名店であるということで早めに行って待っていたが、運良くその日はあまり人も多くなくすんなりと入ることが出来た。よいことは重なるものだ。うな重を注文した。注文したうな重が来たので喰った。代金を払って店を出た。


店に入る前と変わらず天気はとてもよく、昼を過ぎた分だけ日差しは強くなり歩いているだけでじんわりと汗ばんだ。天気がよい上に少し風のある日であったから、その日は富士山がとても綺麗に見えた、あまりにも富士山が綺麗に見えたので、これは現実ではないのかもしれない、思えば、水芭蕉のやうな綺麗な植物も現実のものでないかのように綺麗であったし、夢か幻でも見ているのかもしれない、さては三島へゆく途中の電車の中で寝てしまっているのではないか、と考えるに至った。そうなのではないか。そうであるに違いない。


そうでなくては説明がつかないのでやはりそれは夢の中の出来事であったのだ。注文をしてから暫くして運ばれてきた重箱、緊張のあまり震えながら蓋を開けたその中には鰻、あるいは鰻のやうなものが居た。それを箸で少し取って口に運んだ。その後はよくわからない。何が起きたのかわからないので、もう一口食べてみようと箸で取って食べてみた。それでもよくわからない。今度は、鰻、あるいは鰻のやうなものの下に居る白米も一緒に食べてみることにした。何かが頭の中で弾けたような感覚を覚えた。しかしずっと混乱したままである。一体何が起きているのかを知ろうと一心不乱に箸を動かした。しばらくすると、重箱は空になった。空になった重箱の代わりに頭の中は得体の知れぬ何かで一杯になってしまった。腹も一杯になったが、あまりそのことに気を払う余裕はなかった。


水芭蕉だと思って綺麗だと感動していた植物は実は水芭蕉ではなく水芭蕉のやうな綺麗な植物であるということは後で教えてもらって知ることができたのだが、しかし鰻のやうなものの正体はまだよくわからない。

Voglio solo vivere senza prendersi cura degli altri

手袋を持って出なかったことを後悔した。かじかんだ手を摺り合せながら息を吹きかけ温めようとするその様子はまるで神様に祈っているかのようで、だけど神様は多分おれよりももっと大変な目に遭っている人たちを助けるのに忙しいだろうとも思う。サンタクロース氏が出発するのも、まだもう少し先だろう。だけどそう、これだけ寒いのだからラップランドのトナカイたちも安心してクリスマス仕事に出かけられるだろうし、もしそうならそれはとてもいいことだと思う。


「寒いねえ」唐突にそう呼びかけられて、おれの意識は東京に戻ってきた。丸の内に永久凍土はないし多少暖かくなっても構わないとは言わずに、顔をしかめてその声に応える。おれの表情をどう解釈したのか、彼女は楽しそうにステップを踏みながら「こういう空気は好きだな」と笑った。「そう?おれは恒温動物に生まれてきたことを感謝してるんだけど」「ロンドンの街を思い出すんだよね。こんな感じのしんと張り詰めた、肌を刺すような空気って」理系男子の下らない冗談は白い息と共に霧散して、文系女子の詩的な表現が石畳を叩く足音と響いた。「あー、ロンドン帰りたいな!」「そんな薄着で?」「いや、コートは買わなくちゃね…」「買えばいい」「こっちでは要らないじゃない」「今は?」「もうすぐワイン飲むからいい」「それはそうだ」


気の合う友人ってのはいいものだ。何も言わなくても好みのワインをオーダーしてくれるし、黙ってオリーブオイルにペッパーを削っても文句を言われるどころか「タイミングが完璧!」と親指を立ててくれる。

build a ship in a bottle


蒐集癖というのだろうか。何かものを集めたがる習性というのは、一見して生物学的には何の意味もないようで、だけど何かに突き動かされているようで実に不思議だ。グッズであったり本であったりとにかく人は色々なものを集めたがるね。集めて何かするとかそういうことではなく、集めるという行為そのものを楽しみ、"集まった"というその"状態"に快感を覚える。でもそれは多分本当は逆で、「足りない」という状態に不快感を覚え、完全であること、安定であることを求める習性が生物、いやこの世界には元々あって、傾いたバランスを元に戻そうとするような、ある種の引力のようなものがその根本にあるんじゃないかなって思う。


おれはそもそもモノが雑多に散らばっている部屋というのが気に入らないから、あまりモノを集めるということをしない。それにモノを集め始めるとすぐに自分の居場所がなくなってしまうのだ。物理的に。おれの部屋が犬小屋のように狭いことから犬ちゃんというアダ名で呼ばれているというジョークがすんなり受け入れられてしまいそうなほど小さな我が城(推定5畳半)。部屋は狭い、ものは置けない。だがしかしどうしても抑えられないものが一つだけある。ワインのボトルの蒐集である。


おれの部屋の片隅には飲み終わったワインのボトルが並べてある。今でこそ10数本しかないが、以前までは1平米のスペースを埋め尽くすワインボトルの山がさながらボロ屋を食い尽くすシロアリの牙城の如くおれの部屋に居座っていた。おれの部屋へ遊びにやって来た客人はそれを見て絶句したものだ。「…捨てろよ」「いやーついつい集めちゃってさー」搾り出された声におれはいつもの返答をする。いや、全くもってその通り。実際のところ別に集めているわけではなくて、どのワインもエチケットが可愛くて捨てるに捨てられない。それがいつしか集めているというレベルに達してしまったというわけだ。しかしこのままだとおれの部屋は暇潰しに海に流す手紙の便箋をノアの方舟の乗客に売る商人の倉庫となってしまう。生憎世界の終わりにビジネスチャンスを掴むほどおれは商魂逞しくないのでそいつはお断りだ。ガラスのボトルじゃ筏は組めなさそうだし、洪水が起きないよう謙虚に生きるよ。


そうして仕方なく、一度うりゃーっと捨ててしまったのだけれど、やっぱりそのうちの何本かは捨てられずに残してしまった。お気に入りのラベルだから、それだけじゃない。やっぱりどうしても捨てられないんだ。美味しいワインを飲み干して空になったボトルには、代わりにそれを呑んだ時の楽しい食事の時間の記憶が詰まっているようで。「…捨てろよ」「集めてるんだよ」「ウソつけ、捨ててへんだけやろ」客人の呆れた声に、おれは笑いながら答える。そうだね、実際のところ、ワインのボトルはどうだっていいのさ。集めてるのは、その中に詰まってるものだから。

Walk On


少し前にコンバースのスニーカーを買った。神戸の古着屋で買ったハイカットのオールスター、色はワインレッド。型が少し古いらしくて、細長い形をしているのが結構気に入っている。スニーカーは履き潰してナンボだと思っているから、雨の日だろうがストリートサッカーする日だろうが構わず履きまくり、既に新品だった頃の面影はない。先代もおれはそうやって四年かけてボロボロにしてしまった。でも、スニーカーってそういうものだと思う。ボロボロに汚れたスニーカーほど味が出て格好イイものだ。勲章なんて言うとちょっと大袈裟だけどさ。だけどスニーカーに限らず、靴には歩いた街の記憶が残っているようで、だから旅好きのおれは余計に靴を簡単に捨てられない。


ところでコンバースのスニーカーを履くことをおれは長いこと拒んでいた。なにしろメジャー過ぎるというか、街に出てコンバースを履いている人を見かけない日なんてない。永遠のスタンダード。だからこそ「みんなと同じなのはヤだ!」と駄々をコネがちだったおれはコンバースなんて!と思ってこれまで履いたことはなかったのだけれど、近年は厨二病も治癒してきたのか、いや、悪化したと言うべきか…それは「誰もが履いているスニーカーを街で一番格好良く履きこなしてやる」という気概に変わり、最早歩くのが困難なほどに履き潰してしまった先代の次におれはコンバースを選んだのだった。


ところで実際に履いてみて気付いたのだけれど、コンバースのスニーカーは、ハイカットだと足首までキュッと締まってないと格好良くない。そうすると、靴ひもをしっかり上まで締めないといけないことになる。これが脱ぎ履きする時に意外に面倒臭い。出かけた先で、町屋カフェでランチをしようなんてガールフレンドに提案された日には100%脱がなくてはいけない。だったら脱ぎやすいように最初から紐を緩めておいた方が…と最初は思った。だけどそれでは格好悪いのだ。紐がキュッと締まっていないとダメだ。友人からも「紐結ぶの面倒臭いよなー、余らして後ろに回したら?」とも言われたが、ダメだ。それではダメなのだ。それでは街で一番のコンバース野郎にはなれない(女子はカテゴリが違うので比較対象外)。


だから今でも、朝急いで出なければいけない時でも、待合せで人を待たせている時でも、ガールフレンドがお腹を空かせているから早くオーダーしないと機嫌が悪くなりそうな時でも、コンバースの紐をゆっくりと、しっかりと結ぶようにしている。綺麗に固く結ばないと歩いている途中に解けてしまうし、何より急いで紐を締めるとバランスが悪くなって見た目が悪くなる。これは一つの儀式みたいなものなのだ。昔、飲食店で働いていた時、サロンの紐をギュッと結ぶと自然に背筋が伸びて気持ちが仕事モードになっていたように(実のところ今でもそれは残っている)、コンバースの紐を結ぶと気持ちもキュッと引き締まる気がする。


それだけの思い入れを持って履いてるんだ。「お前スニーカーほんま似合うよなあ」と友人に声をかけられたら、そりゃあニヤリと笑ってしまうさ。

踝が地上6000m


おれの声が神様に届いた。


学生最後の夏休みだから日本一高い山に登ろうと言うが、どうせ登るなら富士山だなんてスケールの小さいことを言っていないでエベレストにでも登ってきたらどうだ、というような話を少し前におれはここに書いた。すると驚いたことに、つい先日、友人の一人がキリマンジャロに登ってきたと言うではないか。彼はおれの文章は読んでいなかったと言うが、じゃあ何故キリマンジャロへ?と訊くと「いやー、今しか行かれへんやろ」、お土産の珈琲豆をおれに渡しながら、何もおかしいことはない、そういう風で彼は答えた。これはもう間違いなく神託である。エベレストに行けとは言わずキリマンジャロなんてどうだい、マザーランド最高峰なんてクールじゃないかと現実的な妥協点をお告げとして差し出すところが神様のステキなところだ。おれはあんたのそういうところが好きだよ。なんといったって、彼が本当にエベレストに向かって万一帰らぬ人になったとしたら、おれは一体どんな顔をしたらいいんだ?「これが本当の凍死神託」?おれの天界ジョークのセンスは絶望的だね!


彼は登山とは別にサファリにも出かけたそうで、地平線の彼方に沈む夕陽をバックに草原をゆく象の群れを見たときは心底感動したと言っていた。「山登ればいいってもんでもないんだよ、分かるだろ?」そんな風にニヤニヤしている神様の顔が目に浮かぶ。ムカつくが全くもってそうだ。学生最後の夏休みだからと言って必ずしも山に登る必要はない。もちろん海に潜ればいいという話でもないね。「今しか出来ないこと」、それを楽しめよ、と。何も"学生最後"だなんて、それを殊更に強調する必要だってなくて、いつだってそうなんだ。今しか出来ないことには今しか出来ないという価値がある。だから日本人は期間限定商品や閉店セールに弱いし、あんなマズそうな飲み物を喜んで買うのも日本人くらいのものだ。


しかし、現地のツアーガイドの兄ちゃんが履いていたボロボロの靴を見かねて、登山ツアー終了後に自分の新品の登山ブーツをお礼にプレゼントしたという彼の行動については意見が分かれるところだ。「別に趣味ちゃうし、もう山とか登らへんしな」そんなことはないだろう、エベレストに登るチャンスだってきっとこの先あるはずだ。それに、地元の人が「ミルクを買うよりこっちを買った方が経済的」と語る山羊一頭の値段よりも高いブーツを安易にプレゼントするというのはどうなのか。彼の善意は彼の意向通りに受け止められるとは必ずしも言えないのが現実の辛いところだ。彼らは、そのブーツを売ってミルクを買い、その美味しさに気付いてしまうかもしれない!ブーツをプレゼントした彼の行動は、本当に正しかったのだろうか「いや、まあ本音はトランクにお土産入れるスペース欲しかっただけやねんけどな」彼の行動は絶対的に正しい。おれは彼の登った山の名前を冠した珈琲を飲みながら、母なる大地とそこで働く人々に想いを馳せた。


神様、彼らがいつも暖かい食事と、友人の多い客と共にありますように。

婦人靴踵取替各種税込千二百円

無表情にしかし情け容赦なく八月の終わりを告げるカレンダーの寸分狂わぬ仕事っぷりを恨めしそうに睨みつつ課題に追われる義務教育時代の夏休みの記憶は既に忘れて久しいが最後の抵抗とばかりに熱エネルギーを北半球に照射し続ける晩夏の太陽の砲撃で蕩けた頭に浮かんだのはかつてそうしていたように蛇口に繋がれた散水ホースで頭から思い切り水を被りたいという思いだった。「そんなに暑いのなら涼しいところへゆけばいいのに」と澄まし顔をして飛び去っていった渡り鳥達には夏には夏の楽しみがあるんだよと強がりを言ったもののやはり暑いのは堪え難い。湿度さえなければなあ。じんわりと汗ばんだ肌を優しく撫でるトスカーナの風が懐かしい。


そう。暑いからだろう。友人達は今夏二度目の富士登山に向かった。なんでも前回のチャレンジでは悪天候で頂上まで至ることが叶わなかったらしく、今回はそのリベンジであるとのことだ。彼らにとって「富士山登頂を目指すも途中で断念した」という思い出は学生最後の夏休みのそれとしては相応しくなかったらしい。エベレスト登頂を試みるも命の危険に晒され途中で断念したというのであれば、それはそれで、大いなる挑戦だった、目的は遂行できなかったがそれを目指す過程で得られたものはかけがえのないものだと胸を張れたのではないかと思うが、富士山ではそうもいかないのだろう。そのあたりがどうも「富士山くらい頂上まで登って当たり前」という国内髄一の霊峰に対するいささかカジュアルに過ぎる認識を表しているように思えてならず、そうであるなら初めからより高い山に挑むべきではないのかと思ってしまう。我々にとって富士山とは、どのくらい高い山なのか。


果たして彼らは登頂に成功したらしい。不老不死の霊薬があったかどうかは分からないが(もう既に誰かが燃やしてしまったのだったか?)、彼らは山の上から日の出を見て大変満足したということだ。その様子はTwitterを通してリアルタイムで伝えられた。流行に便乗してTwitterアカウントを取得したものの全く利用していない友人の一人ですらメイド・イン・エクアドルの携帯電話を使って「富士山頂なう」とpostしている。どうしたというのだ。未だにデフォルトアイコンのままの彼をしてわざわざTwitterにアクセスするということはそれは間違いなくパワースポットと噂される富士山頂の力に相違ないのではないかと思い至った。なにしろ、Twitterは宇宙なのだ。この国で最も宇宙に近い場所。つまり人々は宇宙を、Twitterを感じ一体化するために富士山に登るのだ!そしてどうやら、悲しいことだが、おれは富士山に登る必要はないようだ。

ヒールを履いて山登りなんて信じられないと思っていたら彼女はおもむろに靴を脱ぎピンヒールを岩に突き刺して断崖絶壁を登っていった


友人達がこぞって富士山に登っている。次の大河ドラマ竹取物語でもやるのかと思ったらそうではないらしい。最近はパワースポットとやらが流行っていると聞いた。じゃあ、霊峰富士に何かしら超自然的エネルギーを浴びに行くのか、と尋ねると、いや、別に、と。「そこに富士山があるから」。そりゃあ、急に富士山がハワイにバカンスに行ったりはしないだろうけども。


「同級生には学生時代も今年で最後という奴は多いし、学生最後の思い出を作りたいなんて思ってる奴は多いんじゃないの」とはおれの友人の弁である。それはそうかもしれない。社会人になったら学生のように遊ぶことは出来なくなるから、"最後の夏休み"は思い出に残る時間を過ごしたい、と考える学生を引き寄せるのに、富士山は十分魅力的である。なにしろ日本で一番高いのだ。しかしそこで「学生最後の夏休みなのだから、世界一高い山に登りたい」と言ってチョモランマ登頂に向かう学生は未だに聞いたことがない。チョモランマを踏破しようとすれば生半可な体力や装備では不可能で、しかも命を落とす危険すら孕んでいるのだ。いくら人生最後の自由時間だからといって命を賭して記憶に残る時間を体験したいと思う学生は少なかろう。そういった意味で、富士山に登るというのは「カジュアルにナンバーワンを体験出来る」という、ファストフードやインスタント食品に慣れ親しんだ現代の若者ならではのチョイスではなかろうか。なんということだ。富士山の権威が貶められている!


しかし、富士山はともかくとして、学生最後の夏休みが好き勝手出来る人生最後の時間、っていう、そういう人生はおれはちょっとなあ。学生だろうが社会人だろうが遊ぶ時は好き勝手遊びたいし、高い山に登ろうと思った時はエベレストを目指すような、そんな人生がいいね。