think different.

勉強ができる=頭がいい?
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806


最近このテの議論紛いが盛んであるようですが、
どうも始まりはこの増田のようで。多くの人が
これについて「俺的"頭いい"定義」を振りかざし
やんややんやと騒いでおりまして、まあそれを
端から見ると大変滑稽ではあります。


ペップのサッカーを美しいと思う人がいれば、
ジョゼのサッカーを美しいと思う人もいる。
美意識が人によって異なるように、何を以て
「賢い」「頭がいい」とするかは人それぞれ。
何を以て頭がいいとするかは基準となる人、
さらには環境によって違うのではないでしょうか。


ここで増田が言っている「勉強が出来る」というのは、
一般教育における成績が良いことを指していると思われ
ますが、学業成績は単に慣例的に用いられてきた一つの
物差しに過ぎないと僕は考えます。成績が良ければ
頭が良い、とは一概に言えないだろうし、「頭がいい」
と評価される人が必ずしも学業成績が良いとは限らない。
一般教育機関で、専門教育機関で、営利企業で、
思想の世界で、求められる「頭の良さ」は違ってくる。
自分の在る場所において求められる理解力、思考、
知識その他の総合的な評価がその環境に於いての
「頭の良さ」に繋がるのではないかと、僕はそう思う。


「学歴社会」と揶揄されるように、現代の、少なくとも
このちっぽけな島国では学業の成績が過剰に評価されている、
そう主張する人々も少なくないように見える。しかしおそらく、
このシステムが頑固なものとなった背景には「学業を疎かにせず
一般教育の成績を高める努力をする者=優秀な者」という式が
社会全体において考え無しに受け継がれてきたからではなかろうか。


しかし、必ずしもそうであるとは言い切れないと僕は思う。
国語数学理科社会、学業の成績が芳しくなくても頭が良いと
言われる人だっているだろうし、主席で最高学府を卒業しても
融通の利かぬ愚か者と陰で罵られる人もまたいるに相違ない。


しかしだからと言って一般教育に意味はないと言うつもりもない。
「一見役に立たないように見えて実は後々役に立つ云々」などと
喧伝する者も居たが、されどそれは殆ど無意味の別名に近い。
国語が、数学が、その他の教科その内容も大事だが、
それを理解し、知識を得ること、そのプロセスが大事なのだと
僕は思う。様々な環境における「頭の良さ」があるのでは、と
先に書いたが、目的地は違えどそれらに往き着くための過程は
そう大きく違うことはない。学業成績を高めようとする中で、
「行き方」を学ぶ。それが一般教育の意味だと勝手に僕は、
思っている。


定義なんてどうでもいい。頭が良いと思われたいなら
為すべき分野で努力すべきだし、他人が気になるなら
鏡でも見て批評していれば良い。






まあそんな小難しいことどうでもいいからちょっとお前らウチに来ないか?美味しいワインがあるんだ。チキンもあるからちょっと遅いクリスマスパーティしようぜ。