Lakers Beat Knicks


そんなはずはない、と。おれはそう思った。きっと何かの間違いだと。きっとそうなのだ。人間の味覚というやつは本当にいい加減なもので料理の味なんてものは決して料理そのものだけで決まることはない。これは経験上真理であるとおれは思っていて「ジャパニーズガールズにとっての料理の美味しさは誰がお金を払うかによって決まる」という冗句もあながち笑えないのではと真剣に考えることさえあるのだ。だからおれは必死になってずっと自分に言い聞かせた。この街の食事が美味しくないということではないのだ。「この街には美味しいものは何も無い」という刷り込みが、頭からずっと離れない。食事が美味しくないと感じる原因はきっとそこにある。思い込みを捨てろ、先入観を取り払え、あるがままを受け入れろ。そうだ、そうすれば、きっと―。


生まれて初めて訪れた、合衆国はニューヨーク。噂に違わずメシがマズい。


風邪気味の身体にのしかかった12時間の時差もかなり辛かったけれど、食事が合わないのには文字通り閉口した。現地に住む人に「ここは美味しいから」と連れて行ってもらったレストランで口にしたタイ料理やメキシコ料理はまだマシだったが、それ以外はおよそ21世紀の人間が経口摂取すべきものとは思えなかった。約一週間の滞在中、結局NYの食事で一番美味しかったのは博多っ子のおれが同行者を半ば無理矢理引き連れて出かけた一風堂のラーメンだったという事実には引き攣った笑いしか出ない。だがニューヨークで出会った人々は皆が一様に口にするのだ。「この街には全てがある」と。確かにエネルギーに満ちていて、素晴らしい人々の暮らす素晴らしい街だと思う。だがおれにとってのこの世の全てとは美味いメシとカルチョであり、その両方がないこの街には何もないのと同じことだ。まあもっとも、行く前の期待があまりに低かったために実際に行ってみるととてもいい街だと思ったしまた行きたいとも思うのだけれど、次は友人の家に押しかけておれがメシを作ろうと思う。


ニューヨーク出張から帰国したその足で今度は神戸に出張。大学時代を過ごした第二の故郷はまさにホームでありおれは「失われた一週間」を取り戻そうと夢中になって美味い食事を求め、その様子は砂漠を抜け街に辿り着いたキャラバンの一行が水を求めて井戸にダイブするかのごとき必死さであった。そういう場面では大抵井戸が乾いていて何もない地面に激突しついでにバケツのロープが切れて井戸から出られなくなり絶望するのが常だが飢えて意地が汚くなった人間にも期待を裏切ることなく最高の食事を提供してくれるのが神戸という街の素敵なところだとおれは思う。かつてアルバイトとして立っていた店に久しぶりに帰ると、いつも通りの美味しい食事と、いつも通りの手荒い歓迎を受けた。かつておれが居た頃からもう随分と時間が経ったけれど、人は変われど味は変わらないし、昔のように受け入れてくれる。そういう場所があるということはとても幸せなことだと思う。ここには最高の食事とカルチョの話しかないけれど、それはつまり、世界の全てがここにあるということだ。