iPhoneのプレゼンの時に壁紙をクマノミにしたのが気に入らなかった。なんでクマノミなのだ。何か理由があるのだろうけれどおれはそれを知らない。クマノミでなくて別の壁紙を使った方がきっともっと格好良かったとおれは今でも思っている


四十九日法要も終わったのでスティーブのことを書く。


その日はSMSの着信音で目が覚めた。iPhoneを掴むと画面には"Steve Jobs passed away"というメッセージが表示されていた。おれは職場に出掛けて、部屋の隅に転がっていたColor Classicにスティーブの写真を貼って簡単な仏壇を拵えた。それが正しいかどうかはあまり考えずに手を合わせた。


ティーブとは会ったことがないし話をしたこともない。メールを送ったことも貰ったこともない。動いている姿を見たのはWWDCのストリーミング中継の小さくて画質の荒いウィンドウの中だけだ。有名なスタンフォードでのスピーチも実はちゃんと聴いていない。スティーブについて書かれた書籍も沢山出ているけれど一冊も読んでいない。彼のことをファーストネームで呼ぶのも実は少し後ろめたい。「ミスター・ジョブズ」とかって呼んだほうがいいような気もするけど、あまり気にしないことにする。名言として紹介された沢山の彼の言葉のうち覚えているのはたった2つだけで、そのうちの1つは関空で手裏剣を没収された時に彼が叫んだ「こんな国二度と来るか!」というやつだ。だから彼が死んだと聞いた時は真っ先に、手裏剣くらい持って帰らせればよかったのにと思った。


おれが生まれて初めてApple製ではないコンピュータを触ったのは小学校のパソコンの授業の時で、おれは「なんだこのダサいコンピュータは!」と思った。何故かマウスにボタンが2つあった。画面の文字が汚かった。ケーブルは太く不恰好で、起動すると意味不明の文字が大量に表示された後に奇怪なロゴマークが表示された。「スタート」というボタンを押してコンピュータの電源を切りますと言われた時はどうかしてるんじゃないかと思った。そのうちしばらくして、このダサいコンピュータが世間では普通なのだということを知った。だがおれにとってはMacが普通のコンピュータだったのだ。人々はMacを美しいと言うけれど、おれにとってはただ単に、Mac以外がダサかった。


友人たちはApple信者だと笑ったけど、別にAppleの製品でなくてもいいとおれは思っていた。ダサくない普通のものを選んだ結果、たまたま全てに林檎のマークが付いていたのだと。しかしよく考えなくても、ダサいものは嫌だ、格好良くないとダメだという価値観のスタンダードをおれに最初に植えつけたのは、Appleの製品だったのだ。そうなのだ。そうでなければきっと、林檎マークのステッカーが貼ってあるだけでママチャリが格好良く思えたりはしない。


ティーブがいなくなった途端にAppleの製品がダサくなるとは思えないし、彼がいなくてもAppleがこれまで通り普通の製品を出し続けるのならそれはそれでもいい。そもそも、スティーブがいなければAppleのような会社が生まれなかったのかというとそれはおれには分からない。だけど彼がAppleという会社を作ったからおれはこんな風になってしまった。だからスティーブには責任を持って普通の製品を作ってもらわなくてはいけなかったのだ。それに、小さくて画質が荒いウィンドウで見ても彼のプレゼンはとても格好良かった。おれが知る限りではステージの上であんなに格好良いのはMJと彼だけだ。だからあのプレゼンがもう見られないのは寂しい。あの"one more thing"がもう聴けないのは寂しいよ。


もう1つおれが覚えている彼の言葉は「ステイハングリー」というやつだ。お腹を空かせた方が美味しくご飯が食べられる。彼は偉大だったのだ。