OTEMOTO


ある日の昼に定食屋で職場の人々とメシを食いながら雑談している時に「新興宗教の教祖とかイケそうだよね」ということを言われた。大変に心外である。一体どのようなイメージを持たれていたらそんな言葉を頂戴するのだろうか。断固たる遺憾の意を示しつつ「なんですか、使い終わった後の割り箸を崇める宗教をおったてて割り箸メーカーをスポンサーに主婦層を騙したりしそうだって言いたいんですか」と応えた。これはディスポーザブルチョップスティックス教である。割り箸は消費社会の1つの象徴であると言える。割り箸は安価で携帯性に優れ使い捨てであることから衛生的な面でも安心をもたらしてくれる。しかし利便性を求めた結果として日本人が古来より重んじてきた"mottainai"の精神がそこには微塵も感じられない。使った割り箸はその殆どがたった1度の食卓に上がっただけでゴミとして捨てられてしまう。箸を持ち歩いたり洗ったりするというたったその程度の手間を面倒だと思う現代人の怠惰さ傲慢さが有限であり貴重な資源をスポイルしているのだ。豊かな自然に恵まれ環境と共存してきた我々日本人は西洋社会によりもたらされた消費社会に毒されてしまった。このままではご先祖様に顔向けが出来ない。しかし割り箸を使うことを完全に止めるということが著しく困難であるほどにはその利便性に慣れてしまった社会と割り箸という文化によって支えられている雇用は無視が出来ない。つまり我々が出来ることはただ1つである。割り箸に宿った神様を崇め使った割り箸に祈りを捧げることによって我々日本人が古来より受け継いだ自然と共に生きるという精神をさらに次の世代に伝えるのである。それは特別なことは何も必要がなくただ割り箸を使った後にすぐ捨てず割り箸を使う自らの怠惰さを恥じそんな我々に割り箸を届けて下さる割り箸屋の方々に感謝し割り箸という便利なものを生み出した先人の知恵を畏れ割り箸に宿る神様「ディスポーザブルチョップスティックス神」に深い祈りを捧げるのである。しかし日々の祈りだけでは我々の拭い難い怠慢を洗い流し失われた共存の意思を取り戻すことは出来ない。東京都根津に存在する「ディスポーザブルチョップスティックスサンクチュアリ」に巡礼し神様の宿る割り箸「セイントディスポーザブルチョップスティックス」を頂いて自らの家や職場の吉方に奉ることで初めて利便性と引き換えに失われた伝統をもたらすことが出来るのである。割り箸を使い続ける限りこのことを絶え間なく続けることが肝要である。セイントディスポーザブルチョップスティックスはその効力を常に発動し溢れんばかりのDCSオーラを部屋に充満させるが母なる自然のエネルギーを神主が秘伝の儀によって僅かに込めたものであるためその力は有限である。有限であるため頻繁に取り替えることがお勧めされるし可能であるならば全ての部屋と隣近所やよく会話する人々にも利用してもらうことが強く推奨される。セイントディスポーザブルチョップスティックスは決して安価なものではないがそれは割り箸の利便性を享受し逃れられない我々の堕落の裏返しであるので我々はそれを安易にばらまくことはしないが今ならセイントディスポーザブルチョップスティックスを一年分12本に今ならなんとケータイにぶら下げることでその効力を常に身にまとうことの出来るセイントディスポーザブルチョップスティックスストラップを家族の人数分お付けしますし、今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。