Further


ふと文章を書きたくなったので書くことにする。首都はここ二、三日天気がよくなかったけれど、今は薄暗い雲もどこかへ流れて気持ちの良い風が吹いている。神戸の友人から餞別にと渡されたエレクトロニカを聴きながらバルコニーで空を眺めていた。こういう時間があるから人生はやめられない。もう少し涼しくなったらバルコニーにテーブルを出してここでワインを飲むのもいいかもしれないね。


人間は意識しないと視線を上げることがないという話を聞いた。なるほど、意識をして上を見ることを心がけてみると見知った街でも全く見たことのない風景がある。マンションのバルコニーで風に流されそうな洗濯物、非常階段の踊り場で煙草を吸う男性、無数の送電線とアンテナと避雷針。この街で見えるのはそんなものばかりだけれど、何か新鮮で、それが少し面白い。


上を向いて歩こう」という誰もが知っている曲がある。上を向いて歩こう、涙がこぼれないように。坂本九氏の曲だ。この歌詞の一節だけでもとても美しいと思う。ところで実際の歌詞は”泣きながら歩く ひとりぼっちの夜”と結ぶけれど、”ほら 今日の空は こんなに綺麗だから”とおれは歌いたい。涙がこぼれないように上を向いたら、すごく綺麗な空が見えた。泣くことがなかったら、この空にも気がつかなかったかもしれないよ。だから悲しいことと嬉しいことで帳消しだね、と。ポジティブに考えようじゃないか。でも、そうだね。上を向かないと空が見えないというのは考えてみると悲しいことかもしれない。


自分の視線より下にあるものは皆すぐに気付くものだ。でも、自分より上にあって自分を見下ろしているものの存在にはなかなか人は気付けない。同じく、自分の足下にあるものにも気付きにくいけれど…こう考えてみると普段人が見ているものって世界の半分もないんじゃないかな。見えるものだけを見て、それだけについて考えたり、意見することは賢明ではないかもしれない。顔を上げて空を見て(流れ星だ!)、足下を見て(ああ、ガムを踏んでる…お気に入りのスニーカーなのに!)、そうやって初めて何かを思う…流れ星とガムでイーブンだ。世界は公平に出来ているのさ。



なに?上を向いて歩くと転ぶ?そういうことを言うと「夢がない」って女の子に嫌われるぜ。



小さい頃。靴ひもを結ぼうとしゃがむ、落ちたものを拾おうと腰をかがめる、そして立ち上がろうとすると、いつも頭の上には親父のグーが置いてあり、頭を上げたおれは自分から殴られた。恨めしそうに抗議の意を表するおれに、しかし親父は「頭の上には常に注意を払わんといかんとぜ」とニヤニヤ笑いながら言ったものだった。おれは殴られないようにしゃがんでから頭を上げる時は常に一度上を向くようになり、それを忘れると自分から鉄拳にヘディングし、たまに親父にやり返すようになった。もちろんそういう時は親父の方も分かったもので、空中に置かれたおれの手を掴んだり言葉巧みにおれの隙を生んだりして避けていた。なんてことはない、下らない親子の戯れだったけれど、それはおれに視線を上げるということを教えようとしていたのかもしれない。まあもっとも、それを今聞いたところで「危機察知の訓練に決まっとるやろ」とまたニヤニヤされるに違いないのだけれどね。


十年後にその真意に気付くような回りくどいジョークを子供に教えたり、絶対に役に立たないけれど話のタネになるという妙なネタばかり知っていたり、仕事を休んで息子を二十歳の誕生日にドイツまでワールドカップに連れて行ったり、また仕事を休んでiPhone発売日の行列に朝から並んだりするファンキーなおれの親父の誕生日は六月の最初の日だ。きっと今頃、母上と弟と愛犬のDIESELの四人で買ってきたワインとチーズでお祝いしているだろうね。そこに居られないのがとても残念だよ。親父、誕生日おめでとう。身体に気をつけて…ああ、これは多くの息子が親に心配するような健康への心配ではなく週末のサッカーで怪我してくれるなよという願いだ…これからも下らないジョークで皆を幸せにしてやってくれ。ああ、おれも負けないよ。最近は結構親父に勝てるようなもっと下らないジョークが言えるようになってきたと思ってるんだけど。


ところでさっき部屋に干していた洗濯物に激突した頭が少し痛い。