ペンキを塗りたけりゃスラックスを脱いで来い

そんな訳で「実験に対する姿勢は科学をこれまで発展させてきた先祖への敬意に直結する」という有り難いボスのお話に対し一瞬で説教を終えて頂けるようなファンタスティックな相づちを模索しながらおれは夕方の五時を報せるマヌケなバードクロックのピーチクパーチクを聞いていた。「我々の仕事において横着をするということはこれまで積み重ねられてきた仕事に携わった先祖への大変な冒涜なんだよ、分かる?」イエス、ボス。ええ、ええ、分かっていますとも……なんだい?おれがマジメに話を聞いていないように見える?そうかもしれない…だけど、分かっているって言っただろう?おれにだって数十年前の研究者達の苦悩は我が身のように理解出来るのさ—同じ話を六回も聞いていればね。


七回目の先人達の尊い努力の歴史を拝聴し終わってすぐにおれは挨拶もそこそこにラボを出た。確かに不慣れな部分はあるけれど、決して実験に対して手を抜いてはいない。ミスをすることがないとは言えないがそれすら最大限に防ぎ、またフォロー出来る体勢を自分で整えているつもりだ。もちろんボスにおれを一方的に責めようとする意図があってそういった話をしているのではないということは理解しているよ、だけど…。深い溜め息。合理性だけがこの世を支配しているわけじゃないと言っていたのは誰だっただろう。まあいいさ。目出度く十回に到達した日にはお祝いでもしようかね。


自転車に跨がり繁華街へやって来た。空は薄暗く、時間を経るごとに空気が変わっている。すぐにでも雨が降りそうな気配であったけれど、おれは構わず道路脇の電信柱に自転車を括り付け街へと繰り出す。こんな天気の日に街をうろつくのはあまり賢明だとは言えないけれど、何しろ早急に何かしら「ちゃんとした」パンツが必要なのだ。近く目上の方とお会いすることになっていて、そういった際に着るのに適当な服をおれはあまり持っていないことに今更気付いたのだった。なにしろおれのクローゼットにはジーンズしか入っておらず、そんなわけでこうして慌てて洋服を漁りに来ている。しかしなかなか気に入るような、というかそもそもフォーマルなものが見つからないーHelp me, Twitter!急募、服屋。もう七時を過ぎている。服屋はそろそろ店を締め出す頃合いだけれど、この近くであれば、あるいは…おれの願いをどう解釈したか「代官山にでも行ってこい」というメッセージをiPhoneが受信した瞬間、そのディスプレイに向かって、ぽた、ぽたっと水滴が落ちてきた。次第に強くなる雨。不忍池の蓮の葉の上で跳ぶ雨粒を眺めながら、おれはまた溜息をついた。


そういうわけで、ジーンズを履いていく羽目になりそうだ。まあ、ほら、なんだ。農学部として、我々の生活を支えてくれる農夫達のアイデンティティの象徴に敬意を払うという意味でもジーンズは決してラフな服装ではないのではないかな?それに、おれのジーンズは自慢じゃないがなかなか格好良いんだぜ。まあ、特別高価な上等のものというわけではないけれど、この数年間で日本、そして世界中を共に歩き回ったお気に入りのジーンズはとてもいい味わいを出していると自分でも思っているんだ。たくさんの街の風景や、たくさんの素敵な人々との出会いがおれのジーンズには染み込んでいる。そう、ジーンズだからといって適当な気持ちでいるわけではないんだよ。そう、言い換えればこれこそがおれの正装に他ならな「実験室にはそんなラフな格好で来ちゃダメだ。我々は研究者であり、農夫ではないんだ」…イエス、ボス。