マシンガン

最早手遅れである。何が?Twitter症候群だ。症状に個人差はあるものの、現在多くのコアなネットユーザー達が罹患しているこの病気は、しかしあまりその実態を知られていないようにも思えるね。Twitterのアカウントを取得してから一年と半年くらいが過ぎて、やっとおれは自分が罹っているその病気の恐ろしさを知ったよ。このままでは危険だ。人生が滅茶苦茶になってしまう。いや、既になっているかもしれない。なにしろ"最高のつぶやきカタパルト"であるところのiPhoneを手に入れてからというもの「呼吸をするようにTwitterにpostする」というTwitter症候群末期患者への揶揄がおれには現実のものとなっている。信じられないかもしれないが、自分のprofileページにアクセスして多すぎる独り言を眺めていると、明らかにpostした覚えのない文字列が、しかし明確な意味のある文章としてそこに並んでいるのだ。これはいったいどういうことなのか。


例えば電車の中で可愛い女の子を見かけたとしよう。まだ"悪化"していないTwitterユーザならこうだ。お、可愛い子発見。宮崎あおいに似ているなあ。そうだ、Twitterにpostしよう。携帯電話、あるいはiPhoneを出して、クライアントを起動。山手線で宮崎あおい似の可愛い子ちゃん発見!、と。よし、送信。しばらくしてタイムラインをリロード。予想通り「うp」というreplyが返って来たぞ。にやにや。


ところがおれの場合はこうだ。お、可愛い子発見。宮崎あおいに似ているなあ。しかしなんであおいちゃんは俺の嫁じゃないんだ?おかしいよな。そうだ、この世界は間違ってる。間違っているものは正さなくてはいけない。正さなくてはいけないが、とりあえず山手線から千代田線に乗り換える時に東京メトロのポスターであおいちゃんに会わなくてはいけない。今会いにいきます!あおいちゃーん!俺だー!結婚してくれー!そこでふと、左手に持っているiPhoneに目をやる。いつの間にかNatsuLion for iPhoneが起動しており、mentionタブに赤いマーク。タップしてみると「うp」「宮崎あおいは人妻だぞ」「RT: なんであおいちゃんは俺の嫁じゃないんだ?(via @iNut)」なんだこれは?訝しんでSentsタブをタップすると、そこには、先ほどのおれの妄想が綺麗に整列していた。「あおいちゃーん!俺だー!結婚してくれー!」その前に「離婚してくれ」だろ。


重度のTwitter症候群患者であるところのおれにはまず「よし、Twitterにpostしよう」というフェイズが完全に抜け落ちている。考えていることは全てTwitterにpostしなくてはいけないと思っている、いやむしろpostしないという選択肢が既にない。そしてあまりにその動作を繰り返しすぎているために、デバイスを立ち上げクライアントを起動し文字列を打ち込んでpost、という一連の動作を意識して行う必要すらない。結果、頭の中で考えていることがダイレクトにTwitterにpostされ、何をpostしたのかということを覚えていない。訓練されたTwitter-erは最早つぶやいていないのだ。


このようにOutputは驚異的なまでに体に馴染んでいるが、Inputも同様である。十秒でも時間が空けばタイムラインを読んでいる。タイムラインを一通り読んだらふぁぼったーにアクセスして自分のふぁぼられを見てニヤニヤする。お、赤くなってるぞしめしめ。次にTwitter検索でエゴサーチ。あっ、なんだおれの話題が出てるじゃないか。反応出来なかったからとりあえずふぁぼっとけ。そしてまたタイムラインに戻る。以下エンドレス。


これを読んで「あるあるwww」なんて思った人は安心してほしい。大丈夫だ。まだ戻れる。しかしおれと同じく重傷のTwitter-erはこんな醜態を見ても「おい、それの何がおかしいんだ?」と思うに違いない。Twitter症候群末期患者にとって、Twitterはライフスタイルに馴染んでいるというような生易しいものではない。インターネットにアクセス出来なくなると手が震えるなどという中毒症状ですらまだ甘い。反射運動の領域である。大脳を介さずに脊髄で信号がリターンしているのだ。梅干しを見ると唾が出る。可愛い子を見るとpost数が増える。喜べ人類学者共、遂に人間は進化した!


明らかに退化である。


さてそんな自分の行動に疑問を抱かなくなってから結構な時間が経ったのだが、最近そんな自分の超能力を改めて見つめ直す機会が訪れた。きっかけは些細なことだ。去年の夏頃から、試験だオフ会だ卒論だオフ会だガールフレンドの餌やりだ東京行きだオフ会だなんだと慌ただしく、ゆっくりと何かをする気になれなかったのだが、最近それらが一段落したので、久しぶりにじっくり本を読もうと思い立ち、おれの好きな福井晴敏Op.ローズダストの文庫版を先日買って来た。で、読み出すと気づいたのだ。本を読んでいるとTwitter出来ないことに。


音楽を聞いていたり人と遊んでいたりアニメや映画を家で見ているときは、手があいているから常にiPhoneで高速フリックが可能なのだけれど、本を読んでいると手が塞がる。片手で分厚い文庫本を読むのは骨が折れるので、iPhoneはナイトテーブルの上に所在なく横たわることになる。するとおれは脳(あるいは脊髄)とTwitter.comを接続するインターフェースを失い、必然的にpost出来なくなる。何のことはない、当然の話だ。魔法の杖を失えばハーマイオニーだって魔法は使えないね。


Twitterにpost出来ないとどうなるか。単発の思考アウトプットが出来なくなるので、行き場を失ったアイディアはさらに次の思考回路に投げ入れられる。端的に言えば妄想が加速するのだ。あおいちゃん強奪大作戦のリビジョンは書き換えられまくった挙句いつの間にか人類補完計画にすり替わっていたりする。だがおそらく、Twitterをしながらだとこうはいかない。次々に流れていく情報に乗ったり埋もれたり、あるいは他人から突っ込まれたりすることで、あおいちゃんはサードインパクトを起こさないだろうと思う。


そう。Twitterにどっぷりハマってしまうと思考を練り上げる機会が失われてしまうのだ。これがTwitter症候群の何より危険な症状だと気付いた。今更な感はあるけどね。140文字という限定された1postの文字制限は、英語圏であれば言葉通り「つぶやき」レベルでしかないが、日本語は違う。1byteあたりの情報量がアルファベットとは比べ物にならない。だから140文字もあれば起承転結を成すことも可能だし、ちょっとした物語だって捩じ込める。それに「タイムライン」。流れを意識すると、どうしても数postに跨がせることに抵抗が出るので、一つの主題を1postで完結させようとするだろう。つまりTwitterに慣れすぎると、長い文章(あるいは言葉)で語り、細部まで言及した論理で説き伏せるようなやり方を捨て、何でもかんでも短く簡単に纏めようとしてしまう癖がついてしまう。


だが逆に言えばその「シンプルさ」と「速さ」がTwitterの何よりの強みでもある。最近は大手メディアに取り上げられるようにもなって、Twitterの即時性が注目されている。しかしそれはサービス自体の強みでもあるけど、それを高い次元で活かす、言い換えればTwitterに"染まった"ユーザが居てこそ発揮される。例えば"tsudaる"、つまり会議やイベントの実況をTwitterでやることだって、文章を簡潔に速く纏める能力がなければそう簡単に出来る芸当ではないと思う。津田さんすごい。ともかくサービスの性質がそうなのだから、そこにどっぷり浸かっているとそういう方向に頭がfixされるのも当然と言えば当然だ。もちろん、「これって何していいか分かんない」という皆の最初のpostが意味するように、Twitterは人によって色々な使い方があるのだから、Twitterユーザが皆必ずこうなるとは思わないが、いずれにせよこういった傾向になりがちだとは言えると思う。まあもっとも、日頃から「話がクドい」「はよ落とせ」「私は聞くけどその話続ける?」などと言われているような人間にはいい薬かもしれないけれどね。


つまり何が言いたいかというと、別に言いたいことはない。Twitterに「こうしろ」というルールはないんだ。好きにすればいいと思う。彼らが我々ユーザに言ったことは「What are you doing?」ただそれだけだからね。最早誰もその声を聞いていないような気がするが、まあいいじゃないか。それに、例え思考が偏ろうが、時間盗まれ放題だろうが、そのせいで職を失おうが、Twitterに罪はないしね。使い方次第。だったら楽しもうじゃないか。take it easy, ゆるーく行こうぜ。


はい、じゃあこんなもんで単文脱却の長文練習終了。お疲れっしたー。お疲れー。ん?ああ、三回目の破もすげー楽しかったよ。三回目にしてマリがシンジと初めてあの会うシーンでニーハイ破れてんのに気付いた。いやー芸が細かいよね。あとラストバトルのシンジで泣いた。これは三回目だ。