al piano 45, abbiamo bevuto spumanti

クリスマスの匂いがする。


近頃は朝方バルコニーに出ると、すっかり冷たさを増した外気に触れてすっと自然に背筋が伸びる。息を吸うと、乾燥した冷たい空気が一瞬で肺の温度を下げるのが分かった。吐いた息は白く色づいて、すぐに風に流されていく。薄い灰色の雲がかかる空をぼんやり眺めてから、思い出したように寒さを訴える身体に応えて窓を閉めた。


この季節になると不思議と毎年思い出す記憶がある。まだ10歳にも満たない頃、クリスマスが近づくと、毎朝ベッドから飛び起きては弟と一緒にバルコニーへ走っていき、すぐ目の前の山の様子を見るのが習慣になっていた。結露した窓をパジャマの袖で拭いて、おでこをガラスにぶち当てて、二人並んでじっと山を見る。その時の期待感、どきどきと高鳴る胸の感覚は、今でもリアルな感触と共に思い出せる。その興奮は日を追うごとに高揚し、そしてある日爆発する—「母さん!雪!雪ふっとーよ!」山の頂上あたり、生い茂る木々に白い粉砂糖がかかったようなその光景を見て、両親の寝室に突撃し朝から大声を出す兄弟に、苦笑する母親と「雪やなかろー、フケやないと?」などとつまらないジョークを言う親父。そんな反応も全く気にせず、二人は満面の笑顔だった。


もう真冬に半ズボンで駆け回る元気はねえーな…なんて思いながら珈琲を淹れ、出かける支度をする。ふと、将来おれに子供が出来たら…と考えた。自分の子供もそんな風に冬の寒さではしゃぐのだろう。その時はもうちょっと気の利いた—親父よりのそれよりもうちょっと上品なジョークを言えるといいね。





一応クリスチャンであることだしクリスマスくらいは教会に行くかな、などと高校生くらいからずっと思っているが未だ実現していない。そもそも小学校に上がってから行った記憶もあまりないけれどね。でも教会の空気も昔はとても好きで、少し前にイタリアに里帰りした時には街の教会に寄って長椅子に座ってのんびりしたりしていた。まだ純粋だった頃の感覚を思い出せるような…おい、失礼だな。今でもピュアだよ。


宗派を気にしない程度のクリスチャンなので、神社も好きだ。意味は通らないが構わない。昔から神社に行くのは好きだったし、神社の雰囲気も好きだね。神社フェチというか―お正月みたいに人が多くて賑わっている境内も好きだけど、誰もいない境内を一人で散歩するのも好きだ。今でも物事があまりうまくいかない日が続くと近くの神社にお参りに行ったりする。お賽銭を投げて、二礼二拍一礼。願うことはいつも同じだ。「なんとかやれるだけやってみますから、おれがどーにもできんとこはなんとかしてください」。神様の方も、おれがしつこいからか人が来なくてヒマなのか、結構聞いてくれてるみたいで。


しかしどうもお寺は好きじゃなくて。やはり葬式や法事のイメージがこびりついているからなのか、「死んだ後ハッピーになれるように生きてる間にハードワーク」という教えが嫌いだからなのか(そもそも解釈が間違っているかもしれない)。快楽主義者だからね。考えてみれば世の中の宗教というものは大抵そういう人間、というか酒飲みに厳しいよな。いいじゃない。ねえ。こんなタフな世の中生きてくには酔っぱらってへらへら笑ってるくらいで丁度いいよ。





最近よく「ゲイだと思ってた」と言われる。世知辛い世の中である。


昔には恋人を作ろうとしないおれを見かねてか「同性愛は悪いことじゃない、カミングアウトしてもいいのよ」と実の母親に言われたこともある。やはりそういう風に見えるのだろうか。母親は昔Queenが好きで、ロジャーのように格好いい男になりなさいと言い聞かせながらおれを育てていたのだが、間違えてフレディになってしまったかと心配したのかもしれない。ともかくそういったことに理解のある母親で良かった、いや、全然良くない。断っておくがおれはストレートだ。同性愛者に偏見なんて全くないがおれをターゲットにしないでくれ…大丈夫だ、お前の恋人にもおれは絶対に惚れないから!


初対面の人に言われるのも雰囲気やら見た目やらが同性愛者っぽいのかと悩ましいが長い付き合いの友人にまで言われた日にはおれは一体どうすればいいんだろうな!ちなみにここで言ってるのはgeekyな女子が現実を忘れるために溺れてるペラッペラの同性愛ではなく高さのある話なので余計にタチが悪い。繰り返すが、おれは同性愛に偏見はない、でもストレートだ。NO THANK YOU, but I don't care what you do. しかし「そうじゃないの?」と言われるということはそういう方々にターゲットとして見られる可能性が高い。それは非常に困る。それなら最近別に言われた「草食系男子だと思ってた」の方が遥かにマシだ。残念ながらおれは農学学士でありながら肉食だけどね。


そこでまあおれのことを同性愛者だと「勘違い」していた人々の証言を思い出して、さらにおれの思う同性愛者のイメージと照らしながら考えてみた。ちなみにおれにゲイの友人はいない。そういえばレズビアンの知り合いもいないな—『対象』ではなく『友人』として付き合ってくれる人がいたら是非おれのところへ来て欲しいね(繰り返すがおれはストレートだ、ごめんよ!)。まあ、だからおれのイメージは大きく間違っている可能性もあるのだが、ゲイの友人を持つという友人の話を聞くに、彼らはその実際の嗜好だけでなく、見た目や態度で判断出来る部分もあるらしい。


まずゲイの人々は女性にとても優しいそうだ。ゲイだと分かっていれば自分が対象にされることはないから男でも近づきやすい、障壁を張らずに済んで楽だという女性側の問題もあるのかもしれないけれどね。そして第二に彼らは、世間一般に言われているような、これはとても悪い傾向だと思うのだが、いわゆる変態のようなイメージはなく、本当に「普通の人」なのだそうだ。こんなに普通の人がゲイなのかとショックを受けるよ、とおれに力説した人もいたのだがおれのショックも理解して欲しい。で、第三に、とても感受性豊かで、オシャレな人が多い、と。そりゃあまあ、遺伝子に反逆してゲノムにコードされた生物の在るべき姿を理性で乗り越えるような連中だからESPの一つや二つ持っててもおれは不思議には思わないぜ…ともかく、彼らはそうなのだそうだ。それにはおれも同意するね。同性愛者をカミングアウトしている人にはやはり何かしら飛び抜けたセンスというか、尖った感覚、アーティスティックな部分があると思う。


ということはだ、つまりおれは…「勘違い」した人々から見ると


女性にとても優しく、また女性から見ても近づきやすい、
 変態性皆無のオシャレな普通の人


もしかして新手の褒め文句なのか?ちょっと遠回しすぎやしないか?