paid bad luck in advance


厄年というのは「気をつけろ、タフな年になるぞ」ぐらいの意味の筈なのだけれど、字面から来るイメージはやはり災厄が降りかかってくるような悲惨なもので、そういう思い込みがちょっとしたアンラッキーに「ああ、厄年だもんな」という意味付けをする後押しになってしまいがち。一年を振り返った時、楽しいこともきっと同じくらいあったはずなのに、厄年というだけでどうにもぱっとしない一年であったなあというような印象を抱いてしまう、それはなんともその年の自分に対して申し訳ないような気もしてしまうね。昨年はまだアンティパスティ、前厄だったのだけれど、前菜でこうならメインディッシュは生き地獄かというような思いを散々味わいながらも無事に年越し、二千十年。数え二十五、本厄です。


それはサインかコサインか、人生の幸不幸というものは上っては下り。ハッピーな休暇を過ごせば休み明けに上司にキレられ、イジメられる日々を乗り切ってホリデーに突入したら束の間の幸せを…おい、サイクルが違うじゃないか?すまない、おれはあまり数学が得意ではないんだ…だけど、人生って綺麗な数式じゃ表せない。小さなフォーミュラが無限に組みあがったナマモノっていうのは、美しくないが故に美しいのさ。曖昧で、単純化出来ない、だから人生は面白い。そうだろ?


だから人生って結局、厳然たる事実としてそこにあるものを「どう」受け止めるかだと思う。タフな日々の後に幸せな休暇を迎えられたら、頑張ってよかった、って素直に受け止めて、思いもよらない災厄が落っこちてきたら、"厄の前払い"、きっとこの先いいことあるよね、って。ポジティブに、ね。でも、幸せすぎて困るような日々を過ごしてると、こんなにハッピーだったらこれから凄く不幸になるんじゃないか…なんて心配もしてしまうのは仕方ないかな。そこはほら、これだけ幸せな目にあったんだから、これから辛い目に遭っても頑張れます、って謙虚に。まあでも、20歳の誕生日の時に念願叶ってドイツW杯に行けた時にこの先ずっとボール蹴れなくなってもいい、って神様に、あれは言い過ぎだったかなって反省してる。次の秋に靭帯断裂して一年リハビリ生活だったんだぜ。