M&A


医学と芸術展に行ってきた。


"芸術、美術の題材として我々自身、つまり「人間」を扱う時、その題材をより深く知る、追究すること、それが医学だった"。芸術の出発点としての科学、医学という意味では、科博的な意味合いの強かった(と聞いているだけでおれは結局行っていない)人体の不思議展とはその根本から大きくスタンスの異なる展示だったのではないかな。色々とキツい展示もあってそういうグロテスクな話やものに弱い貧血気味のおれだけど、気合でなんとか持ちこたえた。日曜の昼前に出かけたところ、幸いにもまだ混雑はしておらず、一つ一つの展示をじっくりと見ることが出来た。しかしいかんせん凄まじいボリュームで、森美術館を出る頃には二時間近くが経過していたのだった。出るとこう、ドッと疲れが。


ダ・ヴィンチのスケッチを代表とする、中世の解剖学を題材とした素描や絵画に始まり、近代のアーティストが手がけた倫理的に物議をかもしそうな作品まで、展示の数はかなりのもの。さらに作品の形式はまさに「なんでもあり」という風で、絵画や彫刻、写真は元より義足や義手、穿孔具にミイラなんかも見ることが出来て、出展されるものの定義はかなり大きな枠で捉えられているように思えた。一応おれも生物学を専攻しているサイエンティストの端くれであるから、展示を見て色々と思うこともあったし、同時に大きな刺激も受けた。尤も、アートに価値を見出すのに知識なんて要らないと日頃から思ってはいるのだけれどね。


実際の展示についてはやはり見てみないと分からない部分が殆どであると思うし、ここにあれこれ書き記すのも無粋なので一つだけ。


中世では人体の解剖を見世物、と言ってはなんなのだけれど、一般に公開していたそうだ。演台の上から解剖学の教授が指示を行い、ステージの中央で床屋外科医が実際に解剖を行い、それを囲むすり鉢状の客席から大勢の人々がその様子を見る、というような、そんな場面を描いた絵を今回の展示でいくつか見ることが出来た。解剖ショーなんておれが見たら五秒で貧血起こしてブッ倒れる自信があるし、その五秒の間にも顔いっぱいに不快の二文字が浮かぶに違いない。そんなものを大挙して見に出かけるなんて、よほど中世の西洋人は野蛮だったのだろうと思いきや、絵を見ているうちに一つのことに気がつく。そのほぼ全ての絵画において、観客の殆どが、時には執刀医自身さえも、眉を顰め、正面からではなく横目に、さも気分の悪いものを見るように、その"現場"を見学している様子が描かれているのだ。


Memento mori, "汝死を忘るるなかれ"。どの絵画の中にもその言葉が書かれているように、現代人よりも遥かに死が身近であり、人の体に対する価値観も大きく違った筈の人々が、ただのモノであるかのように引き裂かれ、切り開かれる人間の体を見つめる時の、その表情が表すもの、いわゆる「生理的嫌悪感」。そういった感情は後天的に植え付けられるものではなく、やはり先天的に人間が持っているものなのだろうか。中世の人々のように死を受け入れていても、現代人のように死から遠ざかっても、人はそれを目の当たりにした時、本能的に嫌悪する。それは人間でさえ、どうやっても本能から逃れられない、生物の域を出ることは出来ないということを意味するのかもしれない。そんなことを考えた。


あと印象的だったのが展示の最後の方にあった写真家Walter SchelsとジャーナリストBeate Lakottaによる"Life Before Death"。これはかなりの衝撃だった。文章と写真、それだけでこれほどに心を揺さぶられることがあるとはね。