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その日は食堂も購買も閉まっていたので、学外に昼食を食べに行くことになった。普段はお金を節約するために具の入っていないラーメンやパサパサしたサンドイッチを泣きながら食べているのだが、折角外に出るのならば美味しいものを食べよう、たまには贅沢をしようということで、天ぷらを食べに行くことにした。


一人暮らしをしていると作りやすい料理とそうでないものがあって、だから外食に行く時は「家で作れないもの」を食べることが多い。後処理の面倒な揚げ物もそのうちの一つで、天ぷらを食べるのは久しぶりだった。出かけたのは、かねてよりid:sayamatcherさんから勧めて頂いていた「天清」というお店だ。


本郷通り沿いの路地裏にひっそりとそのお店はあり、特段変わったところのない古びた定食屋という外観を見て少し心配になったものの、中へ入るとそんな印象はすぐに消えた。カウンターへと促され、席に着く。店内は少し狭いものの、汚さはない。小綺麗にしてある店内に加えて、カウンターの中を見ても、使い込まれた道具達があるべき場所に置かれ、清潔感がある。きょろきょろと店内を見回していたおれに、カウンターの中のご主人が「ランチでいいですか」と訊ねた。お願いします、と返事をすると、ご主人はすぐに作業に取り掛かった。しかし、いいですか、も何も、この店のお昼のメニューは定食一つしかない。予め聞かされていたから困ることはなかったけれども、知らなければ戸惑ってしまうかもしれない。なにしろ店の中にメニューの類いは一切ないのだ。それはある種不親切でもあるけれども、しかしその潔さにおれは好感を持った。


ほどなくして、奥さんと思われる女性がおしぼりとお茶を持ってきてくださった。続いてサラダ、ご飯、お味噌汁、お新香。ご主人は目の前で手際よく揚げた天ぷらを、カウンター越しで直接お皿に載せてくれる。まず最初に、えびの天ぷら。次に茄子とししとう。大葉で包んだいかの天ぷら、さつまいもの天ぷら。そして小えびのかき揚げ。早すぎず遅すぎず、素晴らしいタイミングで揚げられるそれらを、大根おろしをたっぷり入れたつゆにつけて、ふっくらしたご飯と一緒にいただく。これが本当に、涙が出そうなほどに美味しかった。天ぷらという料理はこんなにも感動を与えてくれるものだったろうかと、これが本当に職場から歩いて出かけてきた先で食べている食事なのかと、様々な思いが頭に浮かぶ間にも、噛むごとにあふれる素材の味わいと、さっぱりとしていながらさくさくとした食感、確かにある天ぷらの美味しさが味蕾を包み込んで離さない。濃すぎないつゆと辛すぎない大根おろしをまとったこの店の天ぷらは、塩気の強いものばかりが並ぶ食卓に慣れてしまった現代人に、本当の食べ物の美味しさとは何かということを説くかのようだった。ふっくらとしたご飯が優しい味わいを包む一方、その合間にいただくしじみのお味噌汁の旨みが、適度なアクセントとなって全体を飽きさせることがない。ゆっくりと味わいながら一つ一つを食べ進めるも、おれの舌では脳にその美味しさを完全に伝えきるには足りなかった。全てを食べ終わった後、こぼれるように口から出た「ご馳走様でした」の言葉が、その本来の役目をここまで果たしてくれた食事を、おれは他に知らない。


お金を払って、お礼を言い、お店を出た。その日の午後は、全く仕事にならなかった。