婦人靴踵取替各種税込千二百円

無表情にしかし情け容赦なく八月の終わりを告げるカレンダーの寸分狂わぬ仕事っぷりを恨めしそうに睨みつつ課題に追われる義務教育時代の夏休みの記憶は既に忘れて久しいが最後の抵抗とばかりに熱エネルギーを北半球に照射し続ける晩夏の太陽の砲撃で蕩けた頭に浮かんだのはかつてそうしていたように蛇口に繋がれた散水ホースで頭から思い切り水を被りたいという思いだった。「そんなに暑いのなら涼しいところへゆけばいいのに」と澄まし顔をして飛び去っていった渡り鳥達には夏には夏の楽しみがあるんだよと強がりを言ったもののやはり暑いのは堪え難い。湿度さえなければなあ。じんわりと汗ばんだ肌を優しく撫でるトスカーナの風が懐かしい。


そう。暑いからだろう。友人達は今夏二度目の富士登山に向かった。なんでも前回のチャレンジでは悪天候で頂上まで至ることが叶わなかったらしく、今回はそのリベンジであるとのことだ。彼らにとって「富士山登頂を目指すも途中で断念した」という思い出は学生最後の夏休みのそれとしては相応しくなかったらしい。エベレスト登頂を試みるも命の危険に晒され途中で断念したというのであれば、それはそれで、大いなる挑戦だった、目的は遂行できなかったがそれを目指す過程で得られたものはかけがえのないものだと胸を張れたのではないかと思うが、富士山ではそうもいかないのだろう。そのあたりがどうも「富士山くらい頂上まで登って当たり前」という国内髄一の霊峰に対するいささかカジュアルに過ぎる認識を表しているように思えてならず、そうであるなら初めからより高い山に挑むべきではないのかと思ってしまう。我々にとって富士山とは、どのくらい高い山なのか。


果たして彼らは登頂に成功したらしい。不老不死の霊薬があったかどうかは分からないが(もう既に誰かが燃やしてしまったのだったか?)、彼らは山の上から日の出を見て大変満足したということだ。その様子はTwitterを通してリアルタイムで伝えられた。流行に便乗してTwitterアカウントを取得したものの全く利用していない友人の一人ですらメイド・イン・エクアドルの携帯電話を使って「富士山頂なう」とpostしている。どうしたというのだ。未だにデフォルトアイコンのままの彼をしてわざわざTwitterにアクセスするということはそれは間違いなくパワースポットと噂される富士山頂の力に相違ないのではないかと思い至った。なにしろ、Twitterは宇宙なのだ。この国で最も宇宙に近い場所。つまり人々は宇宙を、Twitterを感じ一体化するために富士山に登るのだ!そしてどうやら、悲しいことだが、おれは富士山に登る必要はないようだ。