Special


連休のある日、二人でふらりと代官山へ出かけた。昼間は日照りが強く、汗ばむほどに気温の高かったその日も、日が沈んで辺りが暗くなり始めた頃には随分と過ごしやすくなって、時折吹き抜ける涼しい風が、歩き疲れた身体に心地良い。左腕に絡められた細い腕から伝わる体温は、空気が冷えていくほどにはっきりと感じられて、それがずっと、あてのない散策の時間を長引かせていた。何気なく隣に目を向けると、小さな横顔がこちらの視線に気が付いて、にっこりと微笑む。周りの人々がこちらを見ていないことを目だけで素早く確認して、そっとその頬にキスをすると、彼女はまた、嬉しそうに笑った。


ふと、彼女が口を開いた。「誕生日のプレゼント、何が欲しい?」誕生日か、もう来月なんだね。特に欲しいものはないかなあ、とおれは応える。そんなことにお金を使わせるわけにはいかないし、一緒に何か美味しいものが食べたいな、と言うおれに、でも、と不満げな表情。そうだねえ、としばらく考えてから、でもやっぱり誕生日にはプレゼントはいいかな、と呟く。彼女が不思議そうな目でおれの顔を見た。薄闇に浮かんだ綺麗な顔を見ながらおれは言う。ほら、誕生日ってさ。それだけでもう特別な日じゃない。プレゼントをあげたり貰ったりするなら、なんでもない普通の日がいいな。だってそしたらその日が、そのプレゼントを見るたびに思い出す特別な日になるでしょ。そんなおれの言葉を聞いた彼女は、少し驚いたような、"珍しくいいことを言っている"、とでも言いたげな表情。なんだよなんか文句あるか、と小突いて、二人で笑った。「これまでにも、さ。なんでもない日にあなたから貰ったものが、その日の記憶をずっと留めてくれてるんだよ」。それってすごく素敵なことじゃない?すまし顔で言ってのけると、そうだね、と彼女は笑った。それにつられて笑いながら、おれは思う。でも、それが本心なんだ。そうやってずっと一緒に過ごしていけば、やがて毎日が特別な日になって、きっと毎日楽しい気持ちでいられるようになる。そんな風に、いつも二人で幸せに、笑いながら過ごせる日々。それが何よりも今、欲しいものだから。


不器用な君へ


煙草を止めた。


結局のところそれはおれには似合わないと思ったからだ。いくつでも考えられる煙草を吸う理由はしかしそのどれもがおれに合っているとは思えなくて、だったら理由もないのに別に無理をして続ける必要もない。だから、止めた。簡単な話だ。空腹を満たすために、仕事をサボるために。格好つけるために、交友関係を円滑にするために。辛いことから目を背けて、気を紛らわすために。美味しいご飯を作るのが趣味で、夢中になって打ち込める仕事があって、喋らなければいつでも男前だと言われて、お節介で世話焼きだから自然と多くの人と関われるおれは、辛いことでも面と向かって、そして受け入れると決めたから、だから、止めた。


吸い込んだ煙で肺を満たして、それで心まで満たしたつもりになっても、吐き出した後の胸には喪失感しか残らない。欠けてしまった何かが埋められると信じて続けても、ぼうっとした頭に充足感が湧くことはない。苦しさを取り除こうとして、却って深みに嵌っていく。そうやって沈んだ先にはきっと、絶望しかない。


壊れたものは直せない。失ったものは戻らない。一度知ったことを忘れることは出来ない。それらはどうしようもないことだ。どうしようもないということは、それに対してもう何かをする意味はないということだ。どうしようもないことの前で、どうしようもないまま立ち尽くして天を仰いでも、それがどうにかなることはない。直さなくていい。戻さなくていい。忘れようとしなくていい。それを抱えたまま、別のところへ歩き出せばいい。無意識に取り出した煙草を見て、どうしようもない味を思い出して、それをポケットに捩じ込む。何も咥えずに深く吸った息が、また前を向く活力を与えてくれた。

Even a dog can't eat it


料理の話。


食欲という欲求はおそらく全生物が持ちうるもので、それはすなわち個体の生存本能に起因するものなのだろうけれど「美味しいものを食べたい」という感覚がここまで高度に発達しているのは人間だけなのではないかな。生物が快楽を覚える事柄はほぼ全て、生存に必要、或いは有利になるようなことを進んで自ら行うように仕向ける、ゲノムに仕組まれたシステムでしかないという話も、美味しいと感じるものは身体が欲しているもの、hungry is the best sourceということもあるんだけれど、それだけであれば文化としての料理はここまで進歩しなかったとも思う。人間のすごいところっていうのはこういうところ、最もゲノムから離れたところに立っているということで、だって人間毎日星付きのフレンチのフルコースを食べなくったって生きていけるのにね。


人間はそれまで自然界に存在しなかった様々なものを創り出すことが出来たこの星で唯一の生物だけど、その中でも料理っていうのはすごく特殊な性格を持っている。そこには人間の手が加わっているのだけれど、確かに自然界のものの性格を残していて、しかも優れた料理というものは、調和性、合理性、そういった自然を支配する根底の法則を確かに感じることが出来る。だから他の文化や文明と違って、価値観が変わったから、技術が進歩したからといって爆発的に何かが変わるわけではない。自然の法則が残らないほどに人の手が加わったものが必ずしもいいとは言えないからだ。例えば白米に海苔が合う、この組み合わせは野のものと海のもので、人の手が加わらなくては実現しなかったものだけど、じゃあ何でもかんでも米に乗せれば美味いかというとそんなことは当然ない。それにじゃあ、野のもの同士を組み合わせたら全てうまくいくかというとそういうわけでもない。料理の組み合わせというのは大体の場合において、お互いの足りない部分を補完しあうような面があって、それは例えば種間における遺伝的な多様性であったり、共生であったり、自然界にあるシステムの一部の名残なんだと思う。似たもの同士を繋げても、それは属性の増幅という点でしか意味をなさなくて、メリットよりもデメリットの方が大きい。お互いが違う長所を持っているからこそ、それぞれの短所を補ったり、様々な場面で助け合うことが出来たりして、そこで初めて組み合わせに意味が生じる、という具合にね。

それぞれの現在・過去・未来


東京に来て一年が過ぎた。


色々なことがあった。大学院、新しいラボ。親しかった人々と離れ、新しい仕事を始めて、うまくいったこと、うまくいかなかったこと。激変した環境のせいで、何度も叩き潰され、その度に死にそうな思いをして這い上がって。これまでは何もかも自分の力でスマートにこなせていたと思い込んでいたから、こんな泥仕合は始めてで、だから何度も心が折れそうになりながら、それでもここまでなんとか来れた。
多くの人に心配してもらって、助けてもらって、おれが今こうしていられるのもそのお陰だと思う。だけど、それに本当に気付けたのはほんの最近になってからで。今はつくづく情けない。おれはまだ何もしてない、全然スペシャルな人間じゃないのに、見栄を張って、意地になって、強い自分であろうとすることで、この苦しい一年を乗り切ったとほんの少し前まで思ってた。でもそうじゃなかった。自分の本当の想いを、今まで弱さだと思って隠し通してきたことを、それを自分で認めて、それで初めて、助けてくれる人があっての自分だと気付いた。そして、おれがそうやって自分を偽ることで、側にいてくれる人を知らないうちに傷つけていたということも。格好良い姿ばかりを人に見せようとして意地になって、だから自分が潰れそうになった時それを誰にも見て欲しくなくて、そして何より自分がそれで苦しんでいることすら認めようとしなくて、全てを失いそうになった。
ここまで自分に正直に向き合ったのは初めてかもしれない。全部剥がして、自分の中の一番純粋なものを見たとき、それはこれまでの自分からは想像も出来ないくらい、これまでのおれからすればバカみたいで、カッコ悪くて、でもこれまでの何よりも強い想いで。それを守りたいと思った。ずっと持ち続けていたいと思った。だからなりふり構わずに戦った。
これから先も色々なことがあると思う。二年目の東京での生活、その先の仕事のこと、もっと先の将来のこと。未来に何が起きるかは分からない。だけど、この一年でおれが気付いた色んなことは、きっとこれからも大切にしていかないといけないものだと思う。おれはおれのやり方で、と過去のおれなら言うかもしれないけれど、今のおれはそうは思わない。必要なのはやり方を貫くことなんじゃない。自分の想いを貫くこと。そのためなら、格好悪くてもいい、スマートじゃなくてもいい。泥臭いゴールでも一点は一点だ。もう一度、ここから。今度はおれだけのためじゃないから。

Per te, amore mio.

ラジオから流れる音楽は四畳半の部屋を満たすには十分でも、彼女の眠りを妨げるほどではなかった。二人分の体温で温められたブランケットからそっと抜け出して、静かに上下する肩へとかけてやると、んっ、と小さな声が漏れた。目を覚まさないように、そっと頬にキスをすると、彼女は嬉しそうな顔をして、また気持ちよさそうに眠りに落ちていく。寝息が再び元のリズムを取り戻したのを確かめてから、立ち上がってキッチンへ向かった。
ベッドに戻り、静かに体を揺らして彼女を起こす。マグを手渡すと、顔を上げ、目をこすりながら、か細い声でありがとう、と彼女は言った。両手でマグを握って、息を吹いて冷ましているその顔を見ていたら、問うような視線を向けられる。何もないよ、と笑顔で返すと、安心したように彼女は温かいミルクティを一口含んで、おいしい、と呟いた。おはようございます、お嬢様、と冗談めかして応えると、彼女はまた、幸せそうに笑った。
今日はどうしようか、というおれの問いに、どうしようか、と楽しそうな声が返ってくる。もう少し寝る、と宣言した彼女を追って、再びベッドに潜り込んだ。小さな枕に頭を並べて、お互いの吐息が顔にかかる距離で、でも小さなベッドに二人で寝るといつもこうで。狭いね、と笑いながら言う彼女を、でも一人で寝るには広すぎるよ、そう呟いて抱きしめた。


こんな日がずっと続けばいいと、何も考えずにずっとこうしていられたらいいと思っていたけれど、だけどそれはきっと叶わない願いだとも思っていた。こんな時間が持てるのも今だけで、やがてはそうすることが許されないところへ行かなくてはいけないと思っていた。だから手を放して、辛くても自分に言い聞かせて、この時間は思い出として持っていられればそれでいい、と。だけどそれは間違ってた。そんな時間を、ずっと続けていくための覚悟が足りなかっただけ。大切なものを、いつか壊れてしまうんじゃないかと怯えながら持ち続けることを恐れていただけ。手を放しても、胸に残った温かさはいつまでも消えずに、放してしまったことをいつまでも後悔させる。だから、決めた。もう一度、あの日に戻れるように。次は絶対に、離さない。

temperar


その日は食堂も購買も閉まっていたので、学外に昼食を食べに行くことになった。普段はお金を節約するために具の入っていないラーメンやパサパサしたサンドイッチを泣きながら食べているのだが、折角外に出るのならば美味しいものを食べよう、たまには贅沢をしようということで、天ぷらを食べに行くことにした。


一人暮らしをしていると作りやすい料理とそうでないものがあって、だから外食に行く時は「家で作れないもの」を食べることが多い。後処理の面倒な揚げ物もそのうちの一つで、天ぷらを食べるのは久しぶりだった。出かけたのは、かねてよりid:sayamatcherさんから勧めて頂いていた「天清」というお店だ。


本郷通り沿いの路地裏にひっそりとそのお店はあり、特段変わったところのない古びた定食屋という外観を見て少し心配になったものの、中へ入るとそんな印象はすぐに消えた。カウンターへと促され、席に着く。店内は少し狭いものの、汚さはない。小綺麗にしてある店内に加えて、カウンターの中を見ても、使い込まれた道具達があるべき場所に置かれ、清潔感がある。きょろきょろと店内を見回していたおれに、カウンターの中のご主人が「ランチでいいですか」と訊ねた。お願いします、と返事をすると、ご主人はすぐに作業に取り掛かった。しかし、いいですか、も何も、この店のお昼のメニューは定食一つしかない。予め聞かされていたから困ることはなかったけれども、知らなければ戸惑ってしまうかもしれない。なにしろ店の中にメニューの類いは一切ないのだ。それはある種不親切でもあるけれども、しかしその潔さにおれは好感を持った。


ほどなくして、奥さんと思われる女性がおしぼりとお茶を持ってきてくださった。続いてサラダ、ご飯、お味噌汁、お新香。ご主人は目の前で手際よく揚げた天ぷらを、カウンター越しで直接お皿に載せてくれる。まず最初に、えびの天ぷら。次に茄子とししとう。大葉で包んだいかの天ぷら、さつまいもの天ぷら。そして小えびのかき揚げ。早すぎず遅すぎず、素晴らしいタイミングで揚げられるそれらを、大根おろしをたっぷり入れたつゆにつけて、ふっくらしたご飯と一緒にいただく。これが本当に、涙が出そうなほどに美味しかった。天ぷらという料理はこんなにも感動を与えてくれるものだったろうかと、これが本当に職場から歩いて出かけてきた先で食べている食事なのかと、様々な思いが頭に浮かぶ間にも、噛むごとにあふれる素材の味わいと、さっぱりとしていながらさくさくとした食感、確かにある天ぷらの美味しさが味蕾を包み込んで離さない。濃すぎないつゆと辛すぎない大根おろしをまとったこの店の天ぷらは、塩気の強いものばかりが並ぶ食卓に慣れてしまった現代人に、本当の食べ物の美味しさとは何かということを説くかのようだった。ふっくらとしたご飯が優しい味わいを包む一方、その合間にいただくしじみのお味噌汁の旨みが、適度なアクセントとなって全体を飽きさせることがない。ゆっくりと味わいながら一つ一つを食べ進めるも、おれの舌では脳にその美味しさを完全に伝えきるには足りなかった。全てを食べ終わった後、こぼれるように口から出た「ご馳走様でした」の言葉が、その本来の役目をここまで果たしてくれた食事を、おれは他に知らない。


お金を払って、お礼を言い、お店を出た。その日の午後は、全く仕事にならなかった。

M&A


医学と芸術展に行ってきた。


"芸術、美術の題材として我々自身、つまり「人間」を扱う時、その題材をより深く知る、追究すること、それが医学だった"。芸術の出発点としての科学、医学という意味では、科博的な意味合いの強かった(と聞いているだけでおれは結局行っていない)人体の不思議展とはその根本から大きくスタンスの異なる展示だったのではないかな。色々とキツい展示もあってそういうグロテスクな話やものに弱い貧血気味のおれだけど、気合でなんとか持ちこたえた。日曜の昼前に出かけたところ、幸いにもまだ混雑はしておらず、一つ一つの展示をじっくりと見ることが出来た。しかしいかんせん凄まじいボリュームで、森美術館を出る頃には二時間近くが経過していたのだった。出るとこう、ドッと疲れが。


ダ・ヴィンチのスケッチを代表とする、中世の解剖学を題材とした素描や絵画に始まり、近代のアーティストが手がけた倫理的に物議をかもしそうな作品まで、展示の数はかなりのもの。さらに作品の形式はまさに「なんでもあり」という風で、絵画や彫刻、写真は元より義足や義手、穿孔具にミイラなんかも見ることが出来て、出展されるものの定義はかなり大きな枠で捉えられているように思えた。一応おれも生物学を専攻しているサイエンティストの端くれであるから、展示を見て色々と思うこともあったし、同時に大きな刺激も受けた。尤も、アートに価値を見出すのに知識なんて要らないと日頃から思ってはいるのだけれどね。


実際の展示についてはやはり見てみないと分からない部分が殆どであると思うし、ここにあれこれ書き記すのも無粋なので一つだけ。


中世では人体の解剖を見世物、と言ってはなんなのだけれど、一般に公開していたそうだ。演台の上から解剖学の教授が指示を行い、ステージの中央で床屋外科医が実際に解剖を行い、それを囲むすり鉢状の客席から大勢の人々がその様子を見る、というような、そんな場面を描いた絵を今回の展示でいくつか見ることが出来た。解剖ショーなんておれが見たら五秒で貧血起こしてブッ倒れる自信があるし、その五秒の間にも顔いっぱいに不快の二文字が浮かぶに違いない。そんなものを大挙して見に出かけるなんて、よほど中世の西洋人は野蛮だったのだろうと思いきや、絵を見ているうちに一つのことに気がつく。そのほぼ全ての絵画において、観客の殆どが、時には執刀医自身さえも、眉を顰め、正面からではなく横目に、さも気分の悪いものを見るように、その"現場"を見学している様子が描かれているのだ。


Memento mori, "汝死を忘るるなかれ"。どの絵画の中にもその言葉が書かれているように、現代人よりも遥かに死が身近であり、人の体に対する価値観も大きく違った筈の人々が、ただのモノであるかのように引き裂かれ、切り開かれる人間の体を見つめる時の、その表情が表すもの、いわゆる「生理的嫌悪感」。そういった感情は後天的に植え付けられるものではなく、やはり先天的に人間が持っているものなのだろうか。中世の人々のように死を受け入れていても、現代人のように死から遠ざかっても、人はそれを目の当たりにした時、本能的に嫌悪する。それは人間でさえ、どうやっても本能から逃れられない、生物の域を出ることは出来ないということを意味するのかもしれない。そんなことを考えた。


あと印象的だったのが展示の最後の方にあった写真家Walter SchelsとジャーナリストBeate Lakottaによる"Life Before Death"。これはかなりの衝撃だった。文章と写真、それだけでこれほどに心を揺さぶられることがあるとはね。