dive into summer


「ねえ、東尋坊に行かない?」


連休はどこかに遊びに行きたいね、という話をしていて、じゃあどこに行こうかと相談している時に、ふと彼女がそう言った。どこ、それ。知らないなあ。聞き慣れない単語を何の気なしに検索ボックスに放り込んでみると、かくしてGoogle先生はこのようなsuggestionを返してくださったのだった。「もしかして: 東尋坊 自殺」。樹海と並ぶ自殺の名所に一緒に行こうと笑顔で言うガールフレンド。ヤンデレブームはもう過ぎ去ったものだと思っていたんだけれど?


日本海の綺麗な風景と海産物、三国温泉もあるしきっと楽しいよと主張する彼女に対して、辞世の句を詠むにはまだ早過ぎると拒絶するおれ。大丈夫だよ、崖から突き落としたりはしないよと宥める彼女に対して、これまでに為した貴方への非礼をどうしたら許してくれるのかと泣きながら謝るおれ。まあ、他に行きたいところがあるならそこでもいいけど、と少し残念そうに言う彼女に対して、貸切混浴露天風呂のある宿を発見してよし行こうと立ち上がるおれ。「そうだ、東尋坊行こう!」


連休前は鴨川が氾濫して河川敷の等間隔カップルが流されるという痛ましい事件が起きるほど(注:事実無根)の豪雨に見舞われた京都も、史上最強の晴れ男の名を欲しいままにするおれが本気を出せばこのとおりの快晴、日本全国梅雨明け宣言のオマケ付きである。空は青く晴れ渡り、眩しく光る太陽がじりじりと肌を焼く。出発の朝、早起きして電車に飛び乗り、北へと突き進む鈍行列車の中でうとうとしていたら、昼過ぎには三国港駅に到着していた。「海だー!」とおれがはしゃげば「日焼けする…」と彼女は目を細める。


宿へ荷物を預け、歩いて20分ほどですよと宿の方が言うので東尋坊へといざ出陣。呆れるほど青い空と、嫌になるくらい澄んだ綺麗な海。そして容赦なく降り注ぐ太陽光。「暑いよう…」「普段部屋の中に居てばっかりだろ。たまには運動しないとダメだ」「日焼けしちゃう…美白…」「こんがり日焼けした方が健康的だし魅力的だと思うよ」「本当!? よし、歩く!痩せる!」普段よりテンション高めの二人も、しかし東尋坊に辿りつく頃にはくたくたになっており「ビール。ビール飲みてえ」「そふとくりいむ…」と足取りも重い。山道を抜け、階段を上り、目的地へ辿り着くやいなや"命を大切に!"と大きく張り紙のしてある公衆電話を無視して即座に出店へ駆け込んだ。


連休ということに加えて天気もよかったからか、人出もそれなりで、奇勝・東尋坊には多くの人が訪れていた。安全柵も何もない断崖絶壁に誰でも入れるようになっていればこれは自殺でなくても足を踏み外した人が転がり落ちて海の藻屑となっても致し方あるまいという様子である。そんなところで岩場の端にサンダルを並べて縁起でもないジョークをやってみたりとはしゃいでは、その不思議な光景を写真にひとしきり納め、「かきごおりたべたい」「うん。同じこと考えてた」再び出店の列へと戻るのであった。


その後再び、汗だくになりながらてくてく歩いて宿に戻り、電話してくださればお迎えに上がりましたのにという女将さんの出迎えの言葉に「いえ、健康のためですから!」と強がったり。しかしそれまでの疲れも、あてがわれた部屋からの見事なオーシャンビューを前にした瞬間吹っ飛んだ。Webサイトの見た目の良さと宿泊費だけで決めたのにこんな大当たりとはね、と喜びながら、今度は水着に着替えて徒歩3分のビーチに出掛けた。ビーチでグラビアごっこをしたり海できゃっきゃはしゃいだり。こんなに夏を満喫するのは一体いつぶりだろうね?


海から帰ったその足で温泉にどぼん。小さな旅館なので、3つあるお風呂はどれも貸切で使って下さいということで何の遠慮もなくゆっくり浸からせて頂いた。お風呂から上がって浴衣に着替え、夕飯を頂きに行くと出される料理がまたすごい。旅館のご主人が漁師さんだそうで、捕れたての魚介のお刺身10種、甘エビにウニにサザエにイカにお魚も盛りだくさん。カレイの唐揚げに何だったか忘れたけど煮付けや焼き鯖、これでもかというくらい海の幸を堪能した。中でもガールフレンドはウニが大のお気に入りで、大変満足していらっしゃるご様子。酒飲みのおれはというとお勧めの地酒も頂いて、日本人として生まれたことを神様に感謝しながら二人美味しい食事に舌鼓を打っていると、ちょうど夕陽が海に沈んでゆくのが窓の外に見えた。こんなに幸せな食卓は、そうはあるまい。


夜、随分暗くなってからビーチに散歩に出かけた。街灯の少ない浜辺から見上げた空には、忘れてしまっていた本当の星空があった。夏の大三角はもちろん、天の川までが綺麗に見えて、浜辺で寝転がってしばらくの間、ずっと空を眺めていた。

loser(s)


「それでもサッカー人生は続いていく」


日本代表がパラグアイ代表にPK戦で負けた後のインタビューで選手たちは皆同じようなことを口にした。精一杯戦った。世界を驚かせた。だが目標には届かなかった。あと一歩というところで勝利を逃してしまった。無念、後悔。様々な想いがあっただろう。だけど、それでも、サッカー人生は続いていく。そう語る彼らの姿は、これまでのような「美しく散る」という侍の美学とは違う、諦めの悪い、なりふり構わず闘い抜いた新しい日本代表の成長を物語っているようだった。どれだけ美しい言葉で飾っても、失敗は失敗で、負けは負けだ。勝つために戦って、それを果たせなかった時、敗れた事実を美化して忘れ去ろうとするのはある種の国民性かもしれない。だけどそれじゃ、未来に何も残らない。それでも、サッカー人生は続いていく。泣いて悔しがっても、もう一度立ち上がる。格好悪くてもいい。美しくなくていい。美しくあろうとすることよりもずっと、成し遂げたいと思ったものがある。


綺麗なだけの言葉で何を誤魔化すというのか。
それで済むような感情なら最初から抱かない方がいい。
態度で示せ。結果を見せろ。そうでないなら止めてしまえ。


いつまでそこで這い蹲っているんだ?

Triangle

人の流れに従ってゲートを潜り、スタジアムを出る。すっかり日も沈んで暗くなった空の下、ぞろぞろと往く行列を照らす街灯の光が浮かび上がらせたのは、何かが吹っ切れたような、いくつもの苦笑いだった。みな同じユニフォームを着て、国旗を羽織ったり、フェイスペイントをしていたり、鳴り物を持ったり派手な帽子を被った人も多いけれど、それらがかえって彼らの浮かない表情を際立たせている。突然、遠くで歓声が上がった。続けざまに歌声が響き始め、打楽器の音が建物の壁に反響する。徐々に高揚していく黄色の一団とは対照的に、青いユニフォームを纏った人々は、よく彼らの母国でそうするように、行儀よく順番に並んで俯いたまま歩いていく。それでも黄色い人々のお祭り騒ぎはなかなか止む気配がない。歩きながら、ぼんやりとした目でそちらの方を見ていると、ふと近くを歩いていた人と目が合って、思わず互いに苦笑い。どちらからともなく言葉を交わし始めた。


「いやー…やっぱり強いっすね、ブラジルは」
「…まだまだ、世界の壁は越えられないですねー」


降参だ、と言わんばかりの口調でのそんな会話のやりとりに、周りの人達も笑いながら頷いている。
すると、それを聞いていた誰かが叫んだ。


「でも、よくやりましたよね!次は、四年後はきっと勝てますよ!」


その一声で、沈んでいた人々の顔が上を向き始めたのが分かった。そうだ、まだ終わったわけじゃない。四年後。次こそは、今度こそは。人の流れが、サポーターを運ぶバスの連なる駐車場へと差し掛かり、各々の方向へと分かれ始めた時、自然と皆が声を掛け合い始めた。


「じゃあまた四年後に、南アフリカで!」





4分間のロスタイムの終わりを告げる笛が鳴り、思い出したのはあの日の夜のことだった。
例えサポーターが忘れても、選手達がそれを思い出させてくれた。
ドルトムントから、ブルームフォンテーンへ。
もう一度、皆で、四年前のあの日の続きを。
頑張れ、日本代表。

handmade yellow - keep on walking (never stop)


マーガリンをスプーンでたっぷり二杯、鍋に溶かして温めて。薄切りにした玉ねぎを弱火でじっくり炒めたら、粉っぽくなりすぎないように小麦粉を。木べらで馴染ませ、温めた牛乳を少しずつ加えて、その度によくかき混ぜて、塩と白胡椒で味を見ながら、なめらかなソースに仕上げていく。生クリームがなくても、バターがなくても、美味しいクリームソースが作れた。どこにもレシピのないクリームパスタは今までにない優しい味で、それを食べたあなたの表情は、今までで一番素敵な笑顔だった。


料理のレシピは一つじゃない、こうでなければという縛りもない、必要なのはひらめきとセンス。それはどこか、生き方に似ている。こうしなくちゃいけないとか、これがなければだめだとか。そんな考えを捨てたとき、世界はもっと、広く見える。


他人のレシピは見ないまま、磨いた自分の感覚と、そこから手にしたアイディアで、自分のやり方を組んでいく。そうやって作る人生にこそ価値があるんじゃないかって、今は素直にそう思う。ただただ他人と離れたり、主流に逆らうこととは違うんだ。「こうすべきこと」と「こうしてもいいこと」を綺麗に重ねたその上を、自分のペースで歩いてく。急がなくていい、のんびりでもいい、そうやって歩いていった先にはきっと、そこにしかない場所がある。そんなところを見に行こう。だって人生一度きり、そして世界はこんなに広い。


他のそれとは違うけど、きっと美味しく出来るはず。ゆっくり、だけど一歩ずつ。時間をかけて、手間ひまかけて、時々ちょっと味見して。
あなたを幸せにするレシピ、それをこれから書いていく。

just keeping chasing pavement



受け入れることが強さ、なのかもなあと。そんなことを考えていた。


人それぞれ色んな想いがあって、みんなそれを抱えて日々を過ごしていて。
それは、すべてが他人と共有出来る素敵なものでは、きっとない。
嫌なものから目を逸らすのは簡単だけど、だけどそれじゃいつまでも前に進めない。
捨てるとか、逃げるとか、そういう後ろ向きなやり方で、
それで手に入れた幸せって、多分本当の幸せじゃない。


難しいね。みんなでお酒飲んでゲラゲラ笑って、
それだけで人生やっていけたらいいのにね。
いつもそんなにうまくいくわけじゃない。
中には考えたって仕方ないこともある。
そんな時は…やっぱり、美味しいものでも食べて笑顔になるのが一番、かな。


さて。今夜は何を作ろうか?

stay

五年前に初めて親元を離れて一人暮らしを始めた時も不思議と寂しいと思うことはなくて。実家に居た時から家事はよくやる方だったし、何よりも料理は大好きだったし、一人で生活することが大変だと思うこともなくて、家族と暮らしているのが嫌だったわけでは全くないのだけれど、一人暮らしは大好きだった。お気に入りの音楽を聴きながら本を読んだり、お酒を飲みながらサッカーを見たり、一人の時間を楽しめる一方で、おれの作るそこそこ美味しいご飯を目当てに友人達はよくおれの部屋に入り浸っていたし、お人好しでお節介なおれはそうやって遊びに来る友人をもてなすのも大好きで、四畳半の小さな部屋はいつも賑やかだった。東京に移ってからも楽しくやっていたんだけれど…だけど最近はちょっとだけ、寂しい。


ふと思うことが多くなった。洗濯物を干している時も、シャワーを浴びる時も、料理をしている時も、ベッドで眠りにつく時も。二人だったらもっと楽しいのにな、って。料理をしながらふとリビングの方に視線をやった時、誰もいないソファを見るのが最近は結構、辛い。この寂しさみたいなものが今あるのは、一人暮らしが嫌になったからとかそういうことじゃなくって、二人で一緒に暮らすことの楽しさを忘れられないからで。だから今は、これから先どうやっていこうっていうことよりも、まずその前に、二人で一緒に暮らすためにどうすればいいかっていうことばかりを考えてる。そうすればきっと、全部うまくいく、だから。


そういうわけでちょっとだけ、わがまま言わせてくれますか。

Cancer Cell

システムなんかクソ喰らえという話。


中学時代の終わり、おれは高校受験なんかクソだ、と叫んでいた。しかしどうすることも出来なかったので半ベソでトライしたら、それをパスして過ごした高校時代はとても楽しかった。続いて高校時代の終わりには大学入試なんてクソだ、と唸っていたな。ところが「やってもねえことをクソ呼ばわりするのはクソ野郎だ」と言われたもんで、何糞と勉強してパスして大学に入ったら、やっぱり大学受験はクソだったとボヤきながらも死ぬほど楽しい大学生活を送ることが出来た。そしてモラトリアム延長願いが受理されて間もなく訪れた次なるクソ、就職活動についてもおれは変わらずクソだ、とせせら笑っていた。だけどそんな風に文句を言いながらでも就職活動に励んでいたら、立派な企業に入って楽しい社会人生活を送れることになったのだろうか。残念だけど、それはおれには判らない。


企業研究だ自己分析だ、一体それに何の意味があるのかと。結局今まで流されるままに生きてきて、やりたいことの一つもないから、そうやってフローチャートを辿って無理矢理自分を洗脳にかけて、それで自分の未来を自分で決定したつもりになっているだけで、そんな風に人生決めてしまっていいのかよ。大学で遊んでた頃には知りもしなかったような企業で一生懸命働いて自己実現?笑わせるよな。大企業に流されるままに就職するのではなく自分のやりたいことを実現するために起業するだとかなんだとか言っている連中も似たようなもんだ。結局は枠の中に収まったままで、行き着く先は同じだよ。それが"就職活動"だって言うんならそいつは間違いなくクソ以外の何物でもねえな。


とまあ、そんな風に思っていたわけだ。だけど今は違う。


例えば若い人が全員同じようなことを思って「俺は俺のやり方でやってやる」と言って就職活動投げ捨てて好き勝手に実にもならんサービス始めてみたり田舎で農業始めたり海外に出て行ったりすると社会が破綻する。日本という社会が存続するためには若い人間が大人しく日本を支えてる企業に就職して人を絶やさないようにして、そして働いて社会を動かす必要があるわけだ。だから若い人は無駄に夢持ったりしなくていいし、こんなシステムでいいのだろうかなんて考える必要はない。というか考えちゃダメだ。疑問を持ったとしても、それを変えようなんて、ましてや止めてしまおうなんてとんでもない話だ。就職活動で苦しんでいる若い人間よりも、今そのシステムの中で生きている上の世代やもっと若い世代の数と重要性を考えれば、どちらを優先しなくてはいけないかなんて自明のことだね。生物の1個体を存続させるためにはそれぞれの細胞がそれぞれの役割に従わなくてはいけないように、今動いている社会を存続させるためには、定められたシステムに従ってそれぞれの人間がそれぞれの役割を果たさなくてはいけない。大学生は興味がなくても退屈でもそれに何の意義を見出せなくても、就職活動をしなくてはならないわけだ。


そういうわけで癌細胞になることにしたという話。